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哲学

人は性善説か性悪説化の私の見解(需要無)

人は性善説なのか性悪説なのかという問題について考えることがあった。

というのも、私は最近湊かなえの「ユートピア」を読んだことがきっかけになった。

主な内容は三人の人間関係模様についてだ。ざっくりいうと、お互い善意のつもりでしたことが、悪い方向にとらえられて、最後には悲しい結末を迎えてしまったという内容。その経過が鮮明に書かれている。凄かった。

ーみんな善意で行動しているのに、どうしてこんな悲しい結末になってしまったのだろうか。

私はそれからある仮説を立てた。

「自分は性善説。でも他人は性悪説だと感じる」という仮説

人は自分に対しては絶対的な性善説を振りかざすが、人に対しては性悪説だと思い込んでいるのではないかという仮説をたてた。

実際、ユートピア内でも、自分を良いものにするために、相手を悪者にするといったことが行われていた。

要するに自分が人に裏切られたり、攻撃されたりして傷つくダメージを最小限にしようという防衛反応ですね。

相手が性悪と思えばあまり深くかかわらなかったり、相手の言動を軽くとらえることができます。

そう考えているとき、ある人の考えで私なりに納得したことがあったので、それについて述べたいと思います。

動物ならどうだろう。例えば「アリ」。

みんな働き者で、人殺しや窃盗など、悪いことはしないイメージ。みんな従順で、自分の役割を全うする。他人を蹴落とすために小雀な真似をしたりしない。

一方人間はというと、小さい社会で仲間を蹴落としたり、他人にマウントを取ったり、人を殺したり…動物と人間とは何が違うのだろうか。

その人曰く、「動物と人間の違いは知能があるかないか。生まれたときから、人間には知能があり、いい悪いの判断ができる。自分で考えて、良いことと思ったらするし、悪いことと思ったらしない。」

これを聞いて、なるほどなと納得してしまった。

人には知能がある。例えば、自分が詐欺をするかしないか迷っている状況を考える。

詐欺をすると簡単にお金が手に入る。簡単にお金が手に入ることは魅力的だ。しかし、私ならしない。性善説だからか、いいえ違う。

きれいごとなしに、詐欺をして得たお金のメリットより、人をだましてお金を手に入れたという罪悪感が生涯残ること、警察に捕まって数年ムショに入ること。その後の人生でもしかしたら定職に付けず人生を棒に振るかもしれないというデメリットの方が大きいから、私は詐欺をしない。こう考えると詐欺をしないのは性善説だからではない。

自分が困っている人を助けるかどうか迷っている状況を考える。

人を助けることは、助けるのに必要な労力より、助けたときの自己満足感や、助けられた人の温かくなった心を想像することで自分も嬉しくなる。また、そのことでその人がまた別の人を助けているかもしれないという未来を想像するから、私は困っている人を助ける。

どちらも、未来のことを想像できる力、これが自分の行動を自制している。

普通に考えたらわかることなのにではなぜ人は「悪いこと」をしてしまうのだろうか。

例えば、詐欺の例。もし人生に希望がない人の場合はどうだろうか。

身内などはいなく、家族に見捨てられ、これまでの人生でいいことなんて全くなかったと思っている人―そんな人なら、おそらく詐欺をするかしないかで迷ったとき、私が先ほど述べた物差しで物事を判断するなら、おそらく詐欺をしてしまう。

では環境によって人は性悪になるのか。

おそらく違うだろう。例えば、このような逆境でも、よりよい未来に希望を持ち続けている人―そんな人だったら、きっと詐欺はしない。

以上から、よりよい未来を想像すること。これが性善と性悪を分けるのではないかと考えられる。私たちがほかの動物と違うこと。それは未来について考えることができる能力。

いつでも希望を抱き、よりよい未来について考えること。これが人のいわゆる性善と性悪を分ける。

どんな時でも希望を持ち続けようとか、希望を捨てないようにしようとか、クサい言葉の意味が一つ分かった気がします。

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